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2024.10.31
2024.10.25
県美と新県美 vol.01【前編】からの続き
——ここからは、福岡県立美術館(以下、県美)にまつわる皆さんの個人的なご体験や思い出を振り返っていただきたいと思います。西本さんと魚里さんは1985年から、楠井さんは1991年からそれぞれ県美に関わられていますが、それぞれ一番印象に残っている展覧会や県美体験についてお聞かせください。
西本さん 「わたしの一番」かどうかはわかりませんが、高島野十郎の「すいれんの池」という作品があります。これは野十郎の一番大きな作品で、当時久留米にあった日本ゴム株式会社(現・アサヒシューズ株式会社)が持っていました。
かねてよりこれは良い作品だな、欲しいなと思っていたのですが、ある日、日本ゴムが倒産するとの報道が出ました。そうなるとこの作品の取り扱いが非常に難しくなるので、急いで先方と交渉させてもらい、「とにかくこの作品は譲ってほしい」となんとか引き出して、購入させていただきました。一度財産整理に入るともう作品は取り出しづらくなるもので、そのとき駆け回ったことは、大きな思い出ではありますね。
——いまの県美のコレクションの中でも、重要な作品のひとつですよね。
魚里さん もともとこの作品は、文化会館時代に「福岡県の近代洋画」という展覧会に野十郎では一点だけが出品されていて、それを見た先輩学芸員が、この高島野十郎は絶対にいい作家だと確信した、いわば後の県美と野十郎の縁が始まるきっかけになった作品でもありました。
西本さん それだけにね。この作品だけは絶対に当館に欲しいと思っていました。
魚里さん あの時もし向こうが資産としてオークションにでもかけたりしていたら、もううちも手が出せなくなっていましたから。西本さんが本当に素早く動いて、私も「大したおっさんやな…」と思いました(笑)。
——すごい、危機一髪だったんですね。そんなエピソードを知ると、今後のこの作品の見え方も変わってきます。続いて、魚里さんはいかがですか?
魚里さん 印象に残っているものは本当に色々あるから、どうしようかなと思って。さっきちょっと過去の図録を引き出して思い出したのは、2010年に行った「2つの美術山脈 : 修猷館と明善に集った美術家たち」という展覧会です。
私は普段は日本画や工芸の展覧会を担当することが多いのですが、この当時企画していた展覧会が、予算などの関係から、ある程度準備が進んでいたにもかかわらずぽしゃってしまったんです。そこから「さぁどうしようか」となった時に、本当にもう10分かそこらでひらめいたのがこの企画でした。
修猷館と明善というのは、いずれも江戸時代中期に建学された藩校を起源とする福岡の県立高校の名前です。私は関西出身なのですが、これまでいろんな作家調査を行う中で、この2つの学校を出た美術家が非常に多いことが前から気になっていたんですね。それでふと、この2校出身の美術家とその軌跡を一緒にお見せする展覧会は出来ないかと思いついたんです。
「美術山脈」という言葉自体は、かつて石橋美術館での図録解説で「明善美術山脈」というフレーズを見ていたり、別のところでは修猷館が輩出する人材のことを「修猷山脈」と表現されていた方もいたりしたので、私のオリジナルというわけではまったく無いのですけど。その2つの学校から生まれた様々な作家たちがまさに峰のように連なって、山脈を形成していくようなイメージから展覧会を構想していきました。
とはいえ予算も少なく、非常にコンパクトなつくりの展覧会ではあったのですが、これも図録がよく売れました。特に2校のOBと思しき方たちがいらしては、ああ面白かった、あの先生も出てたしな、と言って「図録5冊もらうわ」という具合で、ハンディで安価であったこともあり飛ぶように売れましたね(笑)。ビジュアルやポスターも素敵に仕上げてもらったことも良かったのだと思います。
自分がこれまで関わってきた仕事のなかでは、いろんな調査を重ねて作り上げた展覧会もたくさんあるんですけど、ふとした弾みから思ってもいなかったものが出来上がったこの展覧会は、自分の中でも忘れがたいですね。
——続いて、楠井さんの印象に残っている作品や展覧会はいかがでしょうか?
楠井さん まず、私が県美に入ったのは1991年とお二人よりだいぶ後なのですが、私が大学時代に彫刻を勉強しようと思ったきっかけは、実は県美だったんです。
1988年、大学二年生の時に、研究室のメンバーと当時の県美へ「佐藤忠良のすべて」展の見学に来ました。展示室にブロンズの彫刻がポツポツポツと良い感じに並んでいたのですが、その日たまたま、特別支援学校から目の不自由な方々もご来場されていました。そこで美術館が、彼らには彫刻を実際に触れながら鑑賞できる特別な対応をされていて、生徒の皆さんが彫刻を触っては色んな感想を言っているようすを横からずっと眺めていました。そのとき、あぁ、彫刻って良いなと思ったんです。
当時の自分は、何となく仏教美術を学びたい、という程度の気持ちで大学の研究室へ上がったものの、さぁこれからどの分野(絵画、彫刻、工芸など)を勉強しようかと迷っている時に、そういう機会に出くわした。立体的に、場合によっては実際に触りながら、かたちや本質を知ることが出来る彫刻って面白いな、と。その最初の衝撃を受けた出来事が、この県美での佐藤忠良展だったんです。
西本さん それは知らんかった。淡々とこの展覧会の担当をやっていた(笑)。
楠井さん その後、大学で仏像を勉強し始めるうちに、ここ県立美術館が文化会館時代にすごい仏教美術の展覧会をやっていたことを知り、憧れを抱く美術館にもなっていました。それからご縁あってこちらに就職できたわけですが、学部卒新採の自分が古美術の展覧会をさせてもらうなんて10年も先のことだろうな、と思っていた矢先、入って2年目の自分にさっそく「展覧会をやってみないか」とお声がけいただきました。それがこの、ちょっと難しい展覧会タイトルですけれども、「黄檗禅(おうばくぜん)の美術」(1993)というもので、福岡県、佐賀県、長崎県の県立美術館が力を合わせ、各県を順に巡回していく3県合同企画展でした。
それぞれ、佐賀と長崎の美術館のご担当の方と3人で、こうしようか、ああしようかとリストを持ち寄って、それぞれ出品交渉をやったり、図録についてはこっちで編集しますと分担したり。もちろん色々失敗も苦労もしましたが、こういう大掛かりな展覧会を採用2年目にして担当させていただいたことは、やっぱり忘れられない体験になりました。
魚里さん 長崎も佐賀も担当者はベテランの方だったのですが、その人たち相手にしっかりと頑張ってたもんね。
——そのご経験は、楠井さんの以降のご活動にも繋がるものになりましたか?
楠井さん そうですね。この展覧会によって人脈も広がりましたし、研究のテーマとしてずっと今日まで続いてもいますし。非常にありがたい展覧会でした。
魚里さん 楠井さんがその後展示課長となった九州国立博物館でも、さらにバージョンアップされた黄檗展を企画、開催されていましたもんね。
——せっかくなので、もう少しだけ皆さんのお気に入りのコレクション作品のお話をお聞きしたいのですが。
西本さん もうひとつ高島野十郎の作品から選ぶなら、「月」という作品ですね。細かいところまで対象を細密に描いてきた彼が、その最晩年に、周囲の景色を描き込むことなく、ただ月だけが出ている情景を描いた。これは彼の到達点のひとつだと思います。この作品を私たちのコレクションに加えられたことは、やっぱり感慨深い1点ではありますね。やはりこれがないと、画竜点睛を欠くというか。彼の画業を紹介するにはこの一枚は欠かすことが出来ないなと思います。
魚里さん 私はもうひとつご紹介するとしたら、紙塑人形で人間国宝となった鹿児島寿蔵さんの作品ですね。
5、6年前に、泰光コレクションという、中村泰助さんと光子さんというご夫妻のお名前に由来するコレクションの一括寄贈を受けました。ご主人が先に亡くなられて、奥様もご高齢になるなか、これまで守ってこられたコレクションをどうしようかとなっていた。鹿児島寿蔵の紙塑人形と歌の軸が計50点ぐらいあるのですが、中村さんの地元・群馬でまとめて受け入れてくれるところはないかと探されていたようですが、どこも「一度にそんなにたくさんの作品は受け入れが難しい」となっていたようです。
そこで奥様が、我々も折に触れては連絡を取らせていただいていた鹿児島寿蔵のご遺族である娘さんへご相談されたところ「福岡県立美術館はどうだろうか」とご提案くださり、ご縁を繋いでいただきました。その後、受け入れに向けての調整を急いで進めた結果、寿蔵の代表作のひとつとして知られる「志賀島幻想箕立事(しかのしまげんそう みたてのこと)」や「卑弥呼」を含む、日本で最上最良の鹿児島寿蔵コレクションを、まるごとご寄贈いただくことができました。
当時、お話をいただいて、初めて群馬県の中村さん宅へ伺った時には、この代表作を含む十数体の人形がずらっと並んでいて、思わず「これはすごい」と圧倒されました。そこから早急に調整をすすめ、半年ぐらいで県美へ搬送。その後色々な調査や撮影を行って、翌年度にはお披露目の展覧会も開催しました。
こうして今後の新県美に向けて、またひとつコレクションの核になると断言できる作品群を手に入れることが出来たのは、鹿児島家の皆さんやコレクターの中村さんなど、色んな方との信頼関係やご縁があってのことで、そこが何より有り難いですね。これでもう、自分が生涯もらったお給料以上のものを、福岡県にお返しすることが出来たかなという気持ちにもなりました。人のふんどしなので、ちょっと厚かましい言い方ですが(笑)。
西本さん いや、でも実際、人のふんどしを借りようと思っても、寄贈者側も慎重に人を見るだろうしね。施設だけで考えれば、当館より立派で綺麗な展示室があるところも多いけど、やっぱりその作品を大事に扱ってくれて、ちゃんとその価値を人々に伝え続けてくれると信頼できる人がいないと、そういうコレクションを呼び寄せることなんて絶対に出来ない。
だから、美術館がそうしたヒューマン(人間的)な部分をいつでも持っていられるかどうかは、やっぱり重要なことだと思います。単にモノとしてきちっとして保管出来るとか、物理的に大丈夫かということだけではない。いかに愛情をもってそれを発信したり、守ろうとしているのか。そういう人が学芸員としているかどうか。棚に直してしまって宝の持ち腐れにするのではなく、大事なコレクションとして、その価値を価値として、どのように伝えられるのかというところが大事なのだと思います。
魚里さん もともと泰光コレクションは、コレクターである中村泰助さんが鹿児島寿蔵さんの歌のお弟子さんで、寿蔵さんご本人から「この人だったら預けられる」と託された作品群でした。そして、その奥様が、鹿児島さんのご遺族を通じて県美と繋がり、私はこれを次の世代の中島学芸員へ委ねて、彼女はいま鹿児島家の方としっかり接点を持ちながらやってくれています。このように、作家やコレクターらから連綿と手渡されていく思いを受け止めて、県立美術館ではこれからもこの作品たちを公開していければ良いなと思っています。
——続いて、楠井さんはいかがですか。
楠井さん 私は、県立美術館の学芸員としては延べ7年しか活動しておらず、その間に自分のリサーチ等で作品を購入できたものは無いんですよね。ただ、作品をご寄贈いただける場面に関わったことは数回あります。その1つが、洋画家の斧山萬次郎さんや金工作家の岡部達男さんです。「県展事始め展」(1999)でご出展いただき、展覧会が終わった後に作品をご寄贈いただきました。その橋渡し役を務めさせていただいたという意味で、彼らは個人的に忘れられない作家ですね。
それに、ここまで色んな先輩方の活動や、作家やコレクターとのご縁のお話をお聞きしたうえで改めて展示室を飾っているコレクション作品たちを見てみると、どの作品にも先輩方のお人柄と結び付くような歴史を感じます。そのひとつひとつはきわめて地道な活動ですが、それこそが福岡県立美術館というものを雄弁に語ってくれているような気がしますね。
——最後に、2029年に大濠公園に開館する新県美へ向けて、皆さんは今後どんな美術館にしていきたいか、そしてそれに向けた課題などもあればお聞かせください。
西本さん まずひとつは、コレクションをきちんと見せられる環境ですね。現県美もコレクションをきちんと見せるには空間が不足していましたし、他の県内の美術館と比べても十分に良い環境とは言えないものでした。ここまで3人が述べてきた大切な作品たちも含め、やはりその良さをきちっと見せられる、常設展示室を含めた環境をしっかり用意していきたいと思っています。
それと、もう1つ。1985年の県美開館の際には、多様な人々がそれぞれの関心に応じて遊ぶように楽しめる美術館を目指していた話をしましたが(本記事【前編】を参照)、今の時代は、お客さん自身がもっと主体的に活動できる場としてのミュージアムが重要視されています。美術館が提供して/お客さんが受け取るというだけじゃなくて、いかにその人たち自身が美術館で主体的に活動できるのか。またそのお客さんというのも、子どもたちから障害者の方、海外からのインバウンドまで、本当に幅広い方々を想定して、それぞれをどのように受け止められるのか、きちんと考えていかねばなりません。
その根幹を成すのは、私は美術館という場所が、やっぱり美術品を単なるモノとして扱うのではなく、ヒューマンな感覚で扱っていく場所であるという意識だと思っています。美術品はお金で買おうと思えば買えるかもしれませんが、やはりそこには連綿と受け継いできた無形のものや、それを支援、応援してきた無数の人たちが存在する。そういったヒューマンな部分とどう繋がる美術館に出来るか。その重要性をきちんと踏まえたミュージアムでありたいな、と思いますし、そこはこれまでずっと大事にしてきたことであり、県美の隠れたDNAのひとつだと思っています。
これまで様々な企画を準備するなかでも、作品をただ図版だけを見て選ぶのではなく、その現場へ行って、その人の話を聞き、そこから展覧会を作り上げてきました。そういった展覧会のあり方や作り方こそが大事だし、そこにあるのは作品そのものだけではなく、そのプロセスで出会った無数の人たちであり、またそれを見に来る一人ひとりの声です。そういう想いをどれだけ追い求めていけるか。「ミュージアムとはヒューマンな場所である」という意識をきちんと持っていられたら、それが一番良いんじゃないかと思います。抽象的ですが、そこはやっぱり重要じゃないかな。
——ただ作品を借りてきて展示するのでもなく、一つひとつの作品や展示に紐づく色んな人々の想いや思い入れみたいなものが伝わってくるような、血の通った展示をしていくイメージでしょうか。
西本さん それは展示に限らず、美術館という施設そのものであったり、時にはお客さん同士のあいだに生まれる場面だったりするかもしれません。いま、そういったヒューマンな感覚が薄れていく中で、ミュージアムはそれが発揮できるひとつの場所なのかなと思っています。
——しかし、展覧会でいえば、今後の新県美が引き続き大型の巡回展を受け止める場になることも考えると、そうしたある程度パッケージになっている展覧会に対しては、どのようなかたちでヒューマンな感覚を盛り込めるのでしょうか?
西本さん もちろん企画ごとにその中身や、どれくらい改変できるかによっても違ってはきます。例えばフライヤーであったり、こちら側でも追加の調査をしてみたり、現存作家の展示ならそこにインタビューを加えてみたり。一つひとつの「モノ」に対して、ヒューマンストーリーをどのように編むことが出来るか。その作品があるということは、生み出した人であったり、コレクターがいたりするので、その話をどう引き出せるか。すべて出来るわけでは無いでしょうけど、その持っていきかたは意識していきたいですね。
また、展覧会そのもの以外にも、お客様同士の出会いを作るやり方があると思います。例えば、私の展覧会では「カフェ」という形で、来場者が集まって、グループで色々会話をするような企画をやったことがあります。それだと展覧会自体に手が加えられなくても、そこからまた新しいヒューマンな何かを、お客さん同士で広げていくことができます。
高島野十郎の展覧会で「カフェ」企画をやってみた時は、ご自身で撮影された野十郎に関係する場所の写真をファイルにまとめたものを持って来られた方がいて、そのグループからお客さん同士で次なるアイデアが芽生えていました。観客同士だった人が友だちになって、今だったらLINEを交換して、という具合で、色んなかたちで広がっていく。こちらがあまり細かく企画しなくても、ただ場所ときっかけさえ準備すれば、そこからはお客様自身で広げて、教え合ったりする。そういうのが一番気持ち良いんじゃないかとも思いますね。
——魚里さんはいかがでしょうか。
魚里さん この1年間、新県美の建設室に参加させていただいて、隈研吾建築都市設計事務所の方々と一緒に基本設計を進めていきながら少しずつ新しい館の姿が見えてくると、やっぱりここがすごく面白い場所になっていくんだろうなと本当に楽しみになっています。なかでも3つの常設展示室。とても広くて、かなりユニークな空間になりますし、そこで私たちの収蔵品がどのように展示され、新たに親しまれていくのかなと思うと、ワクワクしますね。
また、次世代の若い学芸員たちには、先ほど西本さんもヒューマンと仰いましたけど、作家やコレクターの熱い気持ち、そして色んな方々の思いをしっかり受け止めながら、新しい場所で、自分たちの感覚を信じて、これまでみんなで集めてきた作品たちを、県民はじめ世界中からやってくる多くの方々へ見せていって欲しいなと思います。
また今後は「アートコミュニケータ」という新しい事業も取り入れていくようにいま計画しておりますので、より多くの人に新県美とその作品たちに親しんでもらえるようにしていきたいですね。
実はいま、県美から新県美へ作品をお引越しするために、収蔵作品の点検作業を1点ずつ進めています。特に最近は日本画を点検していまして、掛け軸をひとつずつ引き出して、状態チェックや外寸の寸法の測り直しなどを進めていますと、作品を見ていく度に「これはあの時に入った作品だ」とか「ああ、これはあの人から購入したものだ」、「あのときに寄贈いただいた分だな」など、久しぶりに見ることでやっぱり色んな思いが湧き上がってくるんですね。どうかこれらの作品を新しい館で、一人でも多くの方に楽しんで欲しいし、学芸員も含め皆さんに大切にしてもらえたら、という気持ちです。
——加えてお尋ねしたいのが、県展についてです。前身である文化会館時代から、県美の活動の根幹のひとつであった県展は、今後も県民たちの活動の場であり、また発表の場として重要なものになると思いますが、どのように続いていくものになりそうでしょうか?
魚里さん まず、私個人の話をすると、美術館に入って最初に担当させてもらった大きなお仕事が、県展だったんです。当時の審査員には写真家の奈良原一高さんや、グラフィックデザイナーの田中一光さんなど超一級の方々がいらしていて、やっぱりすごい現場でした。
かつてはそうして作家の登竜門として、熱い思いを持った人たちの集まりだった県展も、出品者の高齢化によって少しずつその性質を変えているようにも感じますし、どの県の県展も運営は容易ではなさそうです。もちろん新県美でも引き続き県展をやっていくことになるとは思いますが、運営や予算など変革が必要な時期が来ているのも事実です。いま、県立美術館と美術協会、そして西日本新聞社の3者からなる実行委員会で、今後の方針などを話し合っていますし、新県美になる時には何らかのアップデートがあるのではないかと思います。
この時代の趨勢のなかで今後の県展のあり方を考えると、いかにこれからの世代の皆さんにも応募への熱意を燃やしてもらえる現場に出来るか。新しい美術館でそういう方たちの作品が飾られることはやっぱり素晴らしいことだと思いますので、形態や運営方式はどうなるか分かりませんが、県民の思いを受け止める場として今後もあって欲しいなと思います。
——僕は今も県美に来るたびに色んな団体が展示をしていらっしゃる印象があって、県展に限らず「県民が日常使いできる発表の現場」という役割は、新県美になっても大きいものになるだろうと思います。
魚里さん 現在は、主催展の合間でしか貸し会場が出来ず、一般に貸し出せる期間がごく少ないことが難点でした。新県美では新たに1階の国体道路に面した一等地に開放的な県民ギャラリーが常設されますから、ぜひ新しい美術館を、みなさんの発表の場として使って欲しいですね。
——最後に、楠井さん。楠井さんは九州国立博物館の立上げにも立ち会われており、新しい施設の開館にもまた別の視点をお持ちなのかなと思いますが、いかがでしょうか?
楠井さん やっぱり、今の県立美術館の現状からすれば、信じられないぐらい良い施設を作りたいという想いは強いですね。自分ももう先が限られていますので、今までの国立博物館での経験をフルに生かして、また新しい美術館の流れもしっかり取り入れながら、これから県立美術館を担っていく学芸員の皆さんが困らないよう、堂々と胸を張って活動出来るような設備や施設、環境を整えておきたいと思っています。また学芸員のみなさんには、新美術館になったら「これをやりたい」という夢や希望がいくつもあると思います。それらが実現できるような道筋や環境を、開館までにしっかり整えておきたいな思っています。
そしてもうひとつ。この新県美が「きっかけを提供する美術館」であってほしいなと思っています。美術好きな方だけでなく、たまたまふらっと立ち寄った方、全く興味が無いまま連れて来られたような方にも、ある作品と出会って「あ、この作家についてもっと知りたい」とか「へぇー、こういう世界があるんだ」などと感じる、ささやかなきっかけが無数にある美術館です。最初はちいさなきっかけであったのが、どんどん大きくなって、色んなところへ飛んでいって、つぎつぎと繋がっていく。気が付いたら、アートがもっともっと好きになっていた。そういう場になれば良いなと思っています。
——どうも皆さん、ここまで長時間お話しを聞かせてくださり、本当にありがとうございました。ますます県美のことが好きになる楽しいお話しばかりでした。